公開日 2024年12月27日

大手前宣言
2024年12月9日(月)午後2時
千葉県富津市前久保287番地1にて
-父の家を取り返す-
1. 各々方、久方ぶりである。
私、阿南百合子は、たった今、7年半の歳月を経て、父の家に戻ってきた。
ここは、千葉県富津市前久保287-1、私の父阿南巌の土地及び建物、そして、上昇風と全民党の拠点である。
... この場所は私の父の場所である。
2022年2月5日、長年の弾圧と迫害を受け続け、父は越励学院の院長としてわが国日本の純粋な独立運動である黎明運動を開始した。
- 黎明宣言文(英語)-
2. 黎明宣言文(日本語)
現在、私の父はトルコを拠点に活動している。
迫害者が復讐を受ける時代となった。
3. 我々日本人にとり、日が、昇った。
そしてこれは、我々日本人がわが国を立て直すことを象徴する。
我々は日本を世界の安全地帯にする。
4. 具体的に父の家に帰る時となった。
国民の皆さんも、もう帰ろう。
もう間も無くすると、私に権限が与えられる。
そしてその政治的権力は、天から与えられるものである。
この日、私は父の家に上がった。
その証拠映像は本ページ最下部にて掲載。


1988年 初夏 / 父母はともに35歳、私は生後約3ヶ月。
この年の11月20日に前久保287番地1の家が新築された。
1988年に両親が開始した「さんび学院国際学校」の設立及び試運営(千葉県富津市)。
父は12年にわたり同企画の責任者を務め、教育事業は年々拡大していった。
しかし、2000年1月、主任教師であった母の他界により、全てに突然の終止符が打たれた。
1998年から政治に目を向けるようになっていた父は、2000年5月に平家の谷で得た確信とともに父子10人で帰化することを決め、牧師兼教育者としての強い使命感をもとに日本の幸のために全力を投ずることを選んだ。
そして、原爆投下の非赦性やアメリカ政府による内政干渉等の問題を取り上げ、暴いていく。

富津市前久保287番地1
2009年1月、父は透明で勇敢な民主主義の実現を掲げる憂国草の根運動「上昇風」を開始。
2010年5月、同目的実現のために政治団体全民党を那覇にて設立。
2016年までここは父名義であり、両団体の拠点であった。

教育者であり組織づくりをしない改革派の牧師である父が1995年から活動の拠点としたゴスペルハウス。(同年5月の2階増築完成をうけての写真/二階の間取は、南向に40畳一間の集会場、北向に休憩室及び水回り)
千葉県富津市富津2401−182にあるこの土地及び建物は、2002年の帰化とともに我々家族の本籍地となった(違法競売で奪われるまで)。

くまな
へいげん
父 阿南巌(旧姓平元)(ユダヤのルーツを持つ)
- 今なお、前久保287番地1の土地建物は父のもの -
活動、そして弾圧との長い戦い(抜粋)
1985年に有限会社「XP TEAMWORK」を設立した父は、その印刷工場を拡充すべく、
2006年(平成18年)11月20日に前久保287番地1の土地建物を購入し、工場を構えた。



2009年1月 教育者である父は純粋で 勇敢な民主主義の実現を掲げる社会活動「上昇風」(じょうしょうかぜ)の看板(約8m)を敷地入口に据えて活動を開始。
(当時大学生であった私は事務と翻訳を担当する形で開始時より活動に参加することができた。)

父が看板に選んだ言葉
「心地よい上昇風
苦難を乗り越えて国の未来を築く」

2009年 父は、アメリカ政府の外圧を取り除き、
わが国を新しくするまでの道のりを記した「最大代間企画」を民衆マニュアルの形で発表し、看板や出版をとおして同企画を広く打ち出した。
2010年5月 上昇風を母体に、わが国の真の主権回復と全ての在日アメリカ軍基地の3年以内の閉鎖撤廃等を公約に掲げる政治団体全民党を父子で那覇市にて設立し、総務省に登録。そして、数ヶ月後に活動範囲を全国に広げ、父の家(前久保/同敷地に複数棟有り)を事務所とし、毎日、国旗を掲揚し活動に励む。

2012年6月頃、父と庭先で

2012年4月
2010年7月の参議院議員選挙に沖縄から出馬することができなかった父に代わり、私が次期衆議院議員選挙に出馬することが決まり、2012年4月に同内容を都内で発表。
その際に配布したパンフレットを手に日本の立体地図を持つ父(59歳)と私(24歳)。(居間にて)
同じ頃、全民党の代表として父は、秘密結社やカルト組織に引きずり込まれた人々を助け出す企画である「岩狭間企画」を県道沿いの看板においても打ち出し、その実現へ向けた環境づくりをも並行させていた。
具体的には約500坪ある前久保の土地及び建物を安全地帯として利用し、闇の組織からの脱出を全力で希望する会員を一時期的に避難させ、宿泊環境の整ったその一定期間に、学問「DYSTONOMY(ディストノミー)」の創始者であり教会組織やカルト組織の不正をも暴く専門家である父が脱出の道を案内するというプロジェクトであった。その一環で、工場を宿泊施設に変えるために父は連日大工の経験を活かし、内装工事と活動を同時進行させた。
大学4年生の春に要卒単位を既に取得済みであった私は卒業を待たずに2010年の春から父の社会活動に全力を投じ、大工の仕事をも手伝うようになった。
本職に関しても休暇をとることがなかった父は、安息日(土曜日)に必ず牧会し、高く信頼されていた。





窓、床、断熱材等を入れ、外観からは想像もできない温かい滞在場所を作りつつあった。
(天井の塗装は昔の工場担当者による)
県道沿いの狭い事務所に加え、全民党の充実した事務所となるよう、父は一番奥のこの部屋に資料庫としての中二階まで作った。
そして、交通量の多い県道159号線の騒音を離れ、大きな窓のある事務所で国家の具体的な再建と骨格づくりに励むことができる日々を全民党代表親子として実に楽しみにしていた。
内装用の材料に関しては、父が繋ぎのために以前勤めていた森林組合から不要な木材を安価に仕入れることができ、充てることができた。

左は県道159号線沿いのプレハブ型事務所

敷地中央には自然の島を作り、とても大きな困難を乗り越えた梅の木を植えた。
日曜日には学校が休みだった妹や連絡がまだ続いていた一人の兄も加わり、庭づくりが進んだ。
父の大規模な計画と主導権の発揮がいつも喜びであった。

青空のもとで会話や軽食の時間も加わるよう、ガラス戸を入れ、ウッドデッキを作った。
緑のなかった敷地はやがて庭園のようになり、国鳥である雉(きじ)が遊びに来ることも頻繁にあるほど、平和と喜びが流れる場所に変わった。
(右の写真は活動開始時の2009年1月/下の写真は2013年頃)



2013年、春の夕暮れ。
母家からの眺め。

2014年2月
2013年11月21日、特定秘密保護法案に対する全国的な反対集会の開催が予定されていたこの日の朝、全民党会長としての父を、それも、還暦を迎えたその二日後に、千葉県君津警察はでっち上げの事件で突然公衆の面前で違法逮捕し、同署の留置場にて勾留した。
理由を尋ねに君津署に行くと課長級の警官らは「理由を教える必要はない」と繰り返し、私を門前払いした。
翌12月11日、父の文章を訳したとの理由で私も違法逮捕勾留された。
3週間で父は釈放されるだろうと国選弁護人は重ねて言った。しかし、21日目を前に弁護士が夜電話で「明日(12月11日)、お父さんが釈放されることはなさそう」と告げてきた。翌朝、ともに父子家庭で育った16歳の妹を送り出したその数時間後に、刑事らが庭先に現れ、窓から室内を覗きながら、玄関を開けるよう迫った。私は差し入れの関係で1日おきに君津署に行っていること、その際に一度も尋ねられなかったことを強調した上で家事と事務仕事が残っていることを理由に断った。しかし、半笑いの刑事らは「鍵屋を呼ぶ」と脅し、戸を揺すり始めた。私は急いで妹の携帯電話にメールを送り、留守番電話にも音声を吹き込んだ。その約1時間後、君津署のロビーで、一般人もいるカウンター前で手錠をかけられ、夕方、木更津の留置場に移送勾留された。

長い2ヶ月の末にようやく釈放された際に発覚した事実は、千葉県警が11日朝の妹宛のメールや最後の言葉を全て不正に削除し、妹に何一つ届かなかったという赦せない追加の悪行である。
同時に、父と私に不正に付された接見禁止も解除されないままの勾留であり、クリスマスも年末年始も、灰色い空間での長い昼夜に、雪が降り積もった。
勾留中に妹が玄関先につくった
さらに、2014年1月23日、父は裁判も判決もなく、千葉刑務所に投獄された。それも、関東地方で珍しく大寒波の襲来が予報されていた時であり、投獄された父は3週間いかなる暖をとることも禁じられ、表で雪が降り積もるなか隙間風の多い古いその氷点下前後の独房に収容された。
後の調べにより、時の総理が投獄を命じたこと、並びに、教育者兼牧師である父を肺炎で殺害しようとその企てを実行したことが発覚した。

釈放直後の父と私/君津署前
2014年2月12日、父には「務所上がり」、私には「前科者」の汚名が違法に押され、ともに釈放された。
肺炎を患うことなく奇跡的に生還することができた父は、その後、教育者、そして牧師としての名誉を回復することをも全面的に阻まれつづけ、10年後の2024年秋、私の唯一の社会復帰の道も潰された。
この国の司法、行政、立法府はいずれも芯まで腐敗している。そして、カルト会員とその背後のナチスにより、国家として、足のつま先から頭のてっぺんまで、健康で健全な箇所は、一つもない。
(2024年12月22日)


父が深い想いをもって刑務所で書いた文字。
生還後、父は、国家としての帰還を意味する「もう帰ろう!」活動に特に力を投ずるようになった。



2014年2月以降
父の優しさは変わらなかった。
写真は、全民党のユニフォーム姿の父。
違法逮捕及び違憲投獄に対する抗議の意味で髭を剃らなくなった。
釈放後、私たち父子は本人訴訟の形で数多くの裁判を提起した。
そして、土木現場で働かざるを得なくなった父は、帰宅後に深夜まで私に教えつつ、訴訟における戦い方や法の理解をともに得た。
また、調べを続けるなか、警察や裁判所の違法行為も数多く発覚し、
合わせて50件以上の裁判を提起した。
千葉、東京、大阪を中心に地裁、高裁、最高裁の三審で、
かつ複数件同時進行の戦いが続いた。




(写真は最高裁宛の特別抗告状)
しかし、裁判所は次から次へと違法な決定をもって裁判を絞殺した。
そればかりか、2014年11月19日、つまり、父の誕生日の朝に、大阪府警本部の30代の刑事らが父と私をこの前久保の地で違法に逮捕し、品川駅構内や新幹線内を手錠と腰縄姿で歩くように父にしむけた。
あまりにも酷い弾圧と重い違法の数々であった。
そのあらすじはこうである。
教育者及び組織づくりをしない牧師として富津、君津、木更津の三市にて35年の活動実績を持ち良い評判と広い評価を得ていた父が突然違法逮捕勾留(2013年11月)され、その後に判決無く千葉刑務所に投獄された事件について調べを続けるなか、逮捕状を違法に発付した木更津簡易裁判所の判事木崎正が少し前に簡易試験で判事になった事務官であったこと、及び、我々父子の釈放(2014年2月12日)後まもなくして大阪簡易裁判所に戻ったことまでもが発覚した。そこで、務所上がりの汚名に苦しむ我々は、2014年8月、「不正を働く裁判官に天罰を予告する」と記した木崎宛の横断幕を大阪簡易裁判所の受付にて職員に渡し、判事木崎正宛であることを伝えた。
後に発覚したように、これを受け木崎は大阪地方裁判所長小佐田潔に頼み込み、小佐田は地方裁判所長として天満警察に我々父子に対する虚偽告訴をした。
この虚偽告訴を受け、2014年11月、大阪府警察本部が我々父子(全民党会長と事務局長)を二度目に違法逮捕及び勾留した。実に、一度目の違法逮捕投獄事件の釈放からわずか9ヶ月であり、執行猶予期間中の逮捕であった。その後の我々の懸命な調べにより、ともに統一カルト(旧統一教会)の会員である小佐田と木崎が、執行猶予刑が実刑に変わり我々父子が服役することを何としても狙っていたことが分かった。
3週にわたる勾留の間、検事及び刑事調べにおいて第一回違法逮捕勾留及び投獄事件の詳細を述べ、その逮捕の違法性を客観的にも示すことができたこと等を受け、大阪府警本部の刑事らは次第に我々の味方になった。そして、担当検事は逮捕の3週間後の12月10日に「勾留不必要」との決定を下し、我々父子は釈放された。
しかし、全民党の活動を潰す目的で大阪府警本部が逮捕当日に虚偽を含む内容を報道発表したため、同日のテレビニュースや翌日の新聞(読売、産経など)で我々父子の実名、年齢、住所地に加え、逮捕等に関する虚偽内容が広く報じられていた。
また、父が一度も暴力をふるったことが無いことを知っていたにもかかわらず大阪府警本部は、父の名誉をも最大限に毀損するために、暴力犯を担当する捜査4課の刑事らで我々父子を逮捕し、新聞にもあるように「政治団体代表の親子」があたかも暴力犯であるかのように報じさせた。
勾留3週間後に父と私は釈放されたが、政治団体全民党と教育者である父の評判や信頼はこのような報道やこれを長い間引用する司法書士や弁護士らの加害行為により、さらに破壊され、修復もできないままである。
2015年
虚偽告訴等の犯罪手段を使ってもなお、我々父子に付された執行猶予を実刑に変えることができなかったことを受け、千葉県君津警察は深夜に君津方面からサイレンを鳴らしながら我々の敷地の角まで接近し、事務所前でサイレンを消し、ゆっくりと赤色灯だけで田んぼの道へと進み、君津方面に戻る、という脅迫を数ヶ月間にわたり、何度も、何度も深夜に行った。
己が在日朝鮮人であることを白状した君津警察の刑事課長とその同類による続く不正の数々であった。
201 5年夏




国民を戦場に駆り立てるための法案を違法採決し平和憲法を踏みつける与党の重大な不正を受け、全民党として、数百の検事、憲法学者、判事や特定の団体宛に「にじり口への呼びかけ」と題する文書を送付。
国家を戦争の惨禍から守るために集うべき時であるとの内容を含む文書であったが、返答は皆無であった。
わが家の座敷
違憲投獄事件に関する調べを続けるなか、千葉刑務所の総務部長との話により、投獄が「法務大臣の告知によるもの」であったことが発覚。
いかなる法的手続きもなく、父が投獄されたことが証言とともに固い事実となり、後日、4種類目の公文書をも入手することができた。
以来、4種類の公文書をもって、違憲投獄事件の結託犯が、警察、刑務所、裁判所、検察庁、内閣の全組織であることを立証することができるようになった。
我々父子の怒りは燃え続ける。
2016年 1、2月

2016年1月まで続いた訴訟
勝訴目前の裁判に関してでさえ、判決言い渡し日には審理に関わらなかった判事が代読するかたちで「完全敗訴。訴訟費用は原告負担」等の著しい違法判決が言い渡され、2014年5月〜2016年1月までの約2年間に提起した50件以上の訴訟は全て、裁判所によって絞殺された。

2016年3月 卒業式を終えて
教育者である父にとり、最後の子(二女/十人目)が学校教育を終えた日。
汚名をすすぐことも生活を立て直すことも著しく阻まれるなか、父は、2015年から2016年の2月頃まで、日曜日や土木現場が休みの日に私や妹を助手に、本籍地であり2階に集会場 のある建物(数年前から一階及び2階北側の内装工事が滞り、電気、ガス、水道が無い状態)の外壁を修理した。そして、我々が受けている迫害の象徴として、建物をコールタールで黒色に塗り、入り口に「亡命者の炭家」と記された表札を付けた。




なお、建物が最も悪い状態にあった十数年前の写真だけを掲載し、故意に更新しないというグーグルアースの嫌がらせも続いている。
2016年3月
弾圧により生活ができなくなった我々は、一定の面識のあった不動産屋に前久保の土地建物の売買について相談をした。そして、弾圧が終われば土地建物を買い戻したい旨をも伝えた。
これを受け、仲介取引を引き受けると言った木更津駅前のその有限会社イシハナリアルエステートカンパニー(イシハナリアルティ/不動産屋)の社長は、「ご高齢の買い手を見つけた/うちの物件を多く買ってくれているお客さんで、親戚がいないから亡くなれば物件はうち(イシハナ)に戻ってくる。だからその時になったらうちが管理することになる/それと、買い手は賃貸で住んでいいよと言ってくれている。」と、これらの数点をはっきりと言い、父と私が土地建物を買い戻すことに関しても了承した。このため、売買取引が成立した当日(22日)、続けて賃貸借契約が交わされ、私たちは前久保の家に住み続けることができた。
2016年4月8日 亡命申請
辛うじて住むことができる家だけがあることは、社会的に崖っぷちを意味する。
土地建物の売買交渉や測量等が行われた2ヶ月の間、父は連日の激しい頭痛のなか、英語で申請書を作成していた。そして8日、我々父子三人は同申請書及び多くの添付証拠資料をもって、訴訟で得た多くの資料や記録在中の青い段ボール箱十数個と楽器が積まれたレガシーで未明に前久保を立ち、麻布台に向かった。
追跡を可能にする物は途中で処分した。
そして、朝9時半頃、我々父子三人は在日ロシア大使館にて政治亡命を申請した。
父の高祖父はロシア革命前にロシアの皇帝の信任を得ていた外交官であり、父はその背景をも申請書に明記した。実に、時の総理安倍晋三がアメリカ政府の指図で自身(父)を投獄させた違憲投獄事件とその詳細、裁判所が我々の適法な裁判を全て絞殺した事実、そして、違憲投獄という人権問題を立証する公文書の写しをも添付した厚い申請書であった。
当日の朝、大使館職員が真剣に話を聞こうとしなかったため、別の職員が車で出勤することに合わせて鉄のゲートが開くのを見た父は私たち娘にスイス語で「今、車と一緒に」と声をかけ、足早に先頭を切った。それに続けて私たち娘も急ぎ、父子三人、車に続くように走って大使館のゲート内側に入ることができた。途中、この展開に気づいた制服警察官が父を不正に追いかけ、その背中に手を伸ばし今にも父を掴むところだったが、父に手が届く直前にその中年の警察官はゲートのレール付近で一人で大の字に転んだ。そして、駆け足で父に続いて傾斜を登り途中だった妹はその警察官の頭を、そして私は同人の飛んだ帽子をあやうく踏むところであった。全てが瞬時の展開であった。
無礼な警察官がいち早く皆の前で痛い目に遭い、踏まれる恐怖をも経験したことを後に親子三人で笑うことができたこともよく覚えている。
そのようにして父も私たち娘も無事に大使館の塀の内側に入ったわけだが、内側から別の職員がゲートの前(外)まで戻るよう案内したため、父はすぐに応じた。そこから、ゲート前(ロシア大使館の敷地内)で約2時間のやり取りが続き、歩道と大使館敷地が接する境界線には約40人の制服警官らが我々を睨むように立ち、後から警視庁の刑事らも来て「署で話しましょうよ」と繰り返した。
また、上空ではヘリが慌ただしく旋回していた。そして、TBSテレビやテレビ朝日、テレビ東京の各カメラ人と記者のチームが相次いで父にマイクを向け、質問するようになっていた。父は違憲投獄事件の事実を語り、質問に応じた。しかし、陰険な記者が質問に陥れを含んだ時にはそれをすぐに見抜き、「違う!」と憤りを露わにし、「もっと勉強しなさい!」と叱責した。また、記者が怒られている最中に警官らがハイエナのように境界線を越えようとする場面が何度もあったため、父はその度に「This is russian soil !(これはロシアの土地だ!)」と怒鳴り、緊迫した空気が続いた。
そして、父は目撃者に示すためにあらかじめ用意しておいたA3寸大の資料を示しながら事件の桁を摘示し、投獄を口頭で命じた時の法務大臣谷垣殿を呼び出しつづけた。
快晴の朝、あたりの高層ビルにその怒号がこだましていた。
ロシア大使館の職員が父に時々何かを質問した際、父は冷静に答えながらロシア側の対応を伺った。
本気の記者の真剣な問いにも、父は快く答えていた。
しかし途中、白髪の白人男が記者とカメラ人の群れに近づき、それらに何かを言いまた立ち去るのを見た。
そして、その時点から記者らの質問は皆無となった。
ますます細々と、だがまだ署に来るように表現していた警察の邪な手口をも見抜いていた父は、その40代前後の私服警官ら数人に対し実に教育的に語り、警察とのそれまでの経験をも摘示した。それを受け、刑事らは徐々に考えるようになった。
そして、ロシア大使館職員も一連の展開を見守った。
やがて、立場のある大使館職員が父と話をし、申請書を受け取り、大統領が判断すると告げた。
最後にはロシア大使館の職員数人が父と一緒にコイン駐車場に止めてあった父の車の所まで歩き、必ず返答をすると約束した。
これは、4月8日午前の大きなニュースであった。しかし、国内の著しい検閲によりこの重大な展開には蓋がされ、スプートニクとイランラジオが少々報じる程度であった。
なお、ロシアの国営通信TASSはテレビ放送や記事において、「三人は攻撃的で大使館への侵入を試みた」などと虚偽をもって我々父子三人を中傷し、真実をねじまげた。


(記事を拡大したもの)
8日の朝、ロシア大使館の職員が「プーチン大統領が判断するため、返答には時間を要する」とも言っていたため、待機しなければならないことを知った。
いつでも出立できるよう、レガシーに積んだ荷物をそのままに、待機期間が始まった。
亡命申請日の前夜に布団も処分したため、写真にあるようにソファーをつなげ一人40㎝幅の同所で休み、衣類も作業着のみとなった。




亡命申請に関する書き込み等を父と確認する様子。
在日朝鮮人である不正公安の書き込みとして、「どうぞ、頭に三発。川のそばにお捨てください。」というものもあった。我々父子三人に対する殺害を示唆したものであることはすぐに分かった。
待機期間が2ヶ月となり、土地建物の残っていた売買金も底を着くことが見えた頃、妹がアルバイトを始め生活費に充ててくれた。
なお、その時点でまだ一定の繋がりのあった父の五男(私の兄)が借主になっていたため、家賃の負担は生じなかった。
国鳥である雉(きじ)も雌と共に相変わらず庭まで遊びに来ていたほどであり、抑圧のただ中においても、私たち父子三人の平和は守られていた。

ロシア大使館や政府関係者からの連絡が全くないままであったため、待機期間中にもできることはないかと考えた。
そして、汚名をすすぐために、そして、事件の何らかの解決を求め、探し歩いた。
それまでの調べにより、父の投獄を口頭で命じたのが谷垣禎一法務大臣であったことが発覚していた。
また、総理であった安倍が同人に命じたことも判明していた。
写真は、待機期間中に告訴状を提出することをも視野に情報収集を続けていた際に法務省の入口で撮ったもの。

また、同年の秋、霞ヶ関駅構内のポスターもあまりにも極端であった。
父を投獄させた罪人が総理大臣でありつづけ、法的根拠が十二分にある我々の裁判を関連の全ての裁判所が立て続けに絞殺したというその大犯罪が漂うなか、安倍内閣は「再犯防止」のポスターを張り出した。
2017年春 亡命申請から1年
ロシア側の連絡を待つ他ないという複雑な状況のなか、父は移動可能な建物(一間)を作ることにし、大工の仕事を再開した。
また、土地の裏手から2メーター丈の雑草が毎年敷地に流れ込んだため、大家に連絡の上、材料費自己負担との条件のもとで待機期間中に柵をもつくりはじめた。




しかし、2017年8月下旬頃、突然、所有者(大家)が依頼した千葉の弁護士事務所からの文書が届き、同書面に「直ちに契約解除」、「8月31日までに退去」と記されていた。
- 今度は不退去罪の名目で ...。-
言葉少なに、「何としても末日までにここを離れなければ」と、父が言った。
私たち父子三人は、電気、ガス、水道の無い本籍地の建物に大急ぎで避難しなければならない事態となった。
「直ちに契約解除」というものが法的に全くの違法不正であることは知っていたが、行政や弁護士ら、さらには判事らまでもが違法行為を繰り返すことを重ねて経験してきた私たちは、どこかの弁護士事務所に相談することで日数が経過することだけは絶対に避けなければならなかった。
なお、これは、突然の衆議院議員選挙が実施された時期のことであり、統一カルトのプリンスと呼ばれていた安倍晋三の近い仲間で統一カルトの顧問弁護士であり続けた高村正彦がその不退去罪での逮捕の企てを指揮していたことが後に発覚した。
2017年8月末
このようにして私たちは家を、そして前久保の地を違法に追われ、三菱のミニカで「亡命者の炭家」に着いた。


父の設計で作られた南向きの集会場(40畳一間)の畳はもうなく、北向きの旧休憩室に身を寄せることとなった。そして、父が中古屋で購入した発電機を1日に数回ほどかけて電気をまかない、君津の田んぼの中で湧く一箇所の井戸で飲み水を汲み、カセットボンベのガスコンロで料理をする生活が始まった。
妹は君津のスーパーに勤務していたため、なんとか食材と僅かな材料を買うことができた。そして、父は雨漏りする窓の修理や床と壁の修繕など、生活の環境づくりに最善を尽くし、私もアシスタントとして協力した。


雨水も資源となり、洗濯ひとつに時間がかかる日々。
少しずつ、避難生活に欠かせないものを手配することができ、なんとか、生活ができるまでになった。
しかし、-「この先、どうなる。」、「法的根拠も証拠も全て揃っているのに、この仕打ち。」、「酷すぎる」。-
このような会話が頻繁にあるなかにも、父の内装工事によって生活水準がますます良くなっていくのを三人で喜んだ。ところが、秋風も冷たくなり、二階の北向きの空間に断熱材を入れない限り冬を越すことができないことが分かり、次の課題が目の前にあった。そしてその準備を進めていたなか、突然、家の周りを歩きながら二階の窓を見上げてせせら笑いながら家を物色する在日朝鮮人が連日のように来るようになった。
そして、ある日、「競売にかけられてるから見に来た」と言う者があり、その衝撃的な事実を知った。
それが全くの違法競売であることを我々は証拠とともに示すことが当時もできた。しかし、2014年に父を無裁判無判決で刑務所に投獄した共犯組織である千葉地方裁判所は芯まで腐敗し、父と私たちに対してはどんな違法手段をも使い、我々父子の人生を破壊していった。
株式会社整理回収機構が千葉地方裁判所と手を組み、父の本職の活動拠点であり我々父子の本籍地且つ避難所となっていたこの建物を競売にかけたことが民法に違反するものであることを我々父子は当時も摘示し最大限に声を上げたが、裁判所も元検事が代表の同企業も、悪を選んだ。

2017年晩秋 罪深い千葉地方裁判所にてその不正を訴える父
(周辺の人間の大半は、わが国日本を壊してきた在日朝鮮人)
2017年11月下旬 移住当日まで車中泊
2017年11月下旬、違法競売により私たちはとうとう、唯一の避難場所をも追われた。
そして、三菱ミニカでの三人の車中泊生活が始まった。
海岸、林道、知人の車庫。
睡眠中に足を少し伸ばすだけでブレーキを踏んでしまい車庫内は赤色に... 。その度に驚き、また、 ほとんど動けない車内でクラクションに当たり、鳴ってしまうこともあった。
そして、運転席よりも足元が少し広い助手席にいた父も、毎朝脚がしびれていた。
ミニカでは約40日間、そのような生活がつづいた。
2018年1月
2018年の年が明け、警視庁本庁に投獄の首謀者安倍晋三に対する告訴状を提出したが、本庁内のカルト会員が全てを蹴った。
我々は、関東地方を離れることを決めた。
父は車庫を貸してくれていた知人に近況を伝えた。
話を聞いてくれたそのご老人は「九州に実家がある。もう40年間も誰も住んでないからどうなっているか分からないけど、そこなら貸せるよ。住んでいいよ。」と言ってくれた。
全てが壊された関東、その関東に終止符を打つことを決めていた父にも私たち娘にも、「九州の家」が生活再建の兆しとなり、希望となった。
そして、横浜の中古車販売店でキャラバンをローン(時々支えた兄の名義で)で買い、約2ヶ月半をかけて移住の準備をした。この間、九州で配布することができるように、関東での弾圧を記した大きなパンフレットをも執筆作成した。
そして、違法に競売にかけられた富津岬の家(本籍地)の鍵が取り替えられるまでの間、11月下旬に残す他なかった父の機械や工具類も年明け2月頃に処分することとなった。
その片付けの時、ある苗木を見つけた。
鉢がとても小さいのに木は成長を続けていた。
そして、根が非常に豊かになった。
父は、鉢を壊してあげた。
そして、重なった。
父が千葉県で作り上げた教育活動とその器が壊れ、何も残らないように見えた。
だが、真実が響いた。
千葉県、関東地方が小さすぎた。





2018年3月 移住の道中
2018年 春
2018年3月中旬、我々は、軽蔑と悪行、抑圧に満ちた千葉県を去った。
車一台で去った。
そして、九州に移住し、壮絶な抑圧から解放されたことを父子三人ともに、非常に実感することができた。そして、生活を具体的に立て直すために懸命に励んだ。

2018年3月中旬 上津川に到着した時
責任感がとても強い父は、いつも未開の地を開拓した。
しかし、到着からわずか1週間、それも、家の所有者が私たちを近所の皆さんに直接紹介し、皆さんと仲良くなった頃合いの花見の席でのことであった。
父に対する極悪非道の根拠の無い噂が回っていることを知った。そして、撒き始めた者が集落の人ではないことも分かった。しかし、集落内の在日朝鮮人はすぐにそれを受け入れさらに散布し、他の皆さんとの人間関係が一気に破壊された。
そして、公安が撒いたその著しい虚偽により、本匠という谷での生活再建は全く不可能となった。

2018年6月頃、キャラバンを大分ナンバーに変更登録することができた際。
佐伯市役所の人権課で相談をした際、同課の課長は「これは人権問題だ。市が主導して解決します。」と言ってくれたが、三日後、市に呼ばれて行くと手の平を返され、何もしないと言われた。
そこから再び、旅が始まった。
そして、家探し、職探しの月日が続いた。
途中、大入島で古民家を買うことができ、生活が安定したように見えた。
しかし、九州の日差しと朝から続く古い家屋の片付け作業の夕方に、フェリー乗り場近くのマックスバリュでアイスと少々だけを買う利用方法であったなか、店長が棚の間から行動の終始を監視し店内を尾行するなど、万引きをしたことも無いのに犯罪者のように扱われることも少なくなく、在日朝鮮人とカルト会員がまきちらす私たち父子に対する偽りにより、佐伯という田舎町で職を見つけることはできなかった。

2021年11月、九州での生活が幾重にもつぶされ、上京せざるを得ないことが分かった頃。
着く先々で生活が少し安定する頃に、追手(公安の正体/司法取引をし服役せずに警察のためにどんな汚れた事もする輩)が周り、人間関係を破壊したため、毎回、一から住まいと職探しを始めなければならず、資金の観点からも投資の連続であり、精神的にも疲れ果てるものであった。
こうして、九州に到着した2018年3月中旬から約1年半の間に、実に8回も引っ越さなければならなかったのである。
2020年5月の9回目の引っ越しでようやく落ち着いた熊本県阿蘇郡小国町での生活は、竹田からの転勤ということもあり、約9ヶ月間は比較的安定していた。しかし、2021年の2月5日に、アメリカ大統領の指揮のもとアメリカ軍の戦闘機グラウラーが父に対し猛烈な電磁波を照射し、父を殺めようとした事件が起きた。そのゆえに発生した脳炎により、父は三日三晩、生死の境を彷徨った。
その後、天のあわれみにより父に奇跡的な回復が与えられた。そして、父とともに教育機関である越励学院を設立することができ、独立運動の前兆である「分離運動」(日本人と在日朝鮮人の分離)を開始することができた。
しかし、姉妹のパート職場では創価学会会員の従業員が同組織の客と連携し、真面目に働く私たち姉妹に対し、ありもしない苦情や根拠のない悪口を広め、邪な手を使いつづけた。就職前の面接時には父に対する違憲投獄事件とその汚名についても姉妹から会社に伝えていたが、会社は勤務年数の長い陰険な従業員の嘘話を徐々に選ぶようになり、2021年9月、とうとう収入源が絶たれた。
この頃、私たち父子は、世紀の一件による被害が継続していること、何一つ終わっていないことを痛感し、再度、安倍晋三を刑事告訴することを決めた。
そして、小国町警察の刑事に相談した際、その桁の事件は警視庁に告訴すべきだとの助言を受け、父子三人で上京することを決意した。
2021年11月、12月
2021年11月15日、時の裏庭総理安倍晋三と九人の代表的共犯者を刑事告訴するために、父と二人で警視庁本庁に行った。
しかし、3年前と同じように、人生経験の浅い青臭い刑事らが詳細を聞く前から犯人らを庇い、無礼な言動で我々日本人親子の正当な刑事告訴を妨害した。


統一カルトのプリンスと呼ばれた犯罪者安倍晋三と行政内にいるその母体の者どもによる度重なる違法により、上京した父子三人はとうとう路上生活を余儀なくされ、疲れ果てたなか、新宿駅構内で少し休もうとした。そして、段ボール箱に記した文言をもって通行人にも黙して訴えた。
しかし、長年の被害に苦しむ教育者の一家三人に対し、新宿警察の署員らは実に暴力的で野生的に体当たりをも手段とし、深夜、父子三人を無慈悲に追い出した。
数日後、渋谷の赤十字病院ではスタッフらの人らしからぬ冷酷さを経験することになり、父を暴力的に病院の外に連行した渋谷警察の署員らはやがて罪悪感のあまりうつむいた姿で父の話を聞くようになった。しかし、根本的な解決は無く...。
風が音色を運んだ。
人の心の冷たさ、計り知れない。

しかし、
2021年12月21日、
父阿南巌は歴史的な終焉宣言をもって、
真新しい時代の到来を招いた。

首相官邸真向かいの路上にて約3時間に及んだ宣言。
すなわち、越励学院の院長として父は、
「76年間のアメリカによる日本鷲づかみ時代は終わった!」及び、
「日本の将来はアメリカのものではない!」と力強く宣言した。
そして、日本国内での40年の教育活動の実績を背景に行われたこの宣言により、
目に見えない世界で新たな境界線が引かれた。
そして、アメリカはその境界線を越えることができなくなった。
実に、教育者阿南巌に対する数多くの苦しみと迫害は、
日本国家の黎明(れいめい)を止めることはできなかった。

2022年4月〜8月
熊本県で設立した教育機関である越励学院(完全無償型)の院長として父は、新宿駅東南口前での公衆講義「公義の訴え」を開始した。そして、学院の活動方針である「あらゆる裏事情を露骨に打ち出す」に基づき、毎週金曜日の夕方から90分〜3時間にわたり、世界情勢や隠された事柄を暴き教え、週刊紙「場問」(baton)の執筆発行も伴った。


2022年2月5日、父は長年の弾圧を背景に越励学院の院長としてわが国日本の純粋な独立運動である「黎明運動」の開始を国内外に発表した。
そして、同年5月23日、アメリカのバイデン大統領が来日していた最中に在日アメリカ大使館の裏手を開始地点に、黎明運動が始まったことを宣言する黎明宣言を開始し、東京赤坂、六本木、虎ノ門を数時間にわたり練り歩きながら高らかに発表した。

2023年1月〜2月

院長阿南巌は40年の活動を背景に、
日本国民に対するアメリカ政府による十一の巨罪を世界に発表摘示。
黎明時代の到来
2023年3月
この世の最大の力が復活の力であることが全世界に具体的に示され、時代が変わった。

2023年5月17日
黎明時代の到来を意味するものすごい奇跡とその背景をも世界に発表
解放と復讐を特徴とする黎明時代の紹介
2023年3月〜2024年1月

2023年2月19日
院長阿南巌の娘姉妹として
決算講義行進を無言行進の形で引き継ぎ、
再開した日。

2023年6月〜11月 墓開遵行の際。
(1月まで全88の路上講説を実施)
社会は大きく変わった。
2020年1月のコロナウィルス発生により、社会は根本的に変わった。
それまではひどい冷淡さと底なしの軽蔑がはびこっていた。
千葉県の在日朝鮮人を先頭に、みな、私の父を根拠なく侮辱しつづけた。
特権を違法に持つ彼らは生活保護の手当まで受け、頻繁に新車を買い、新品同様の家電製品等も傲慢に保安林に投棄し、憲法をはじめとするわが国日本の法律を踏みつけながら発酵した攻撃精神で常にいさかいを求め、少ない物を大切にし若い世代の健全な成長と国家の幸のために全力を投ずる私の父を、いつも、けなした。
この孤独は、震災や戦争で避難する大勢も決して経験しないものである。
社会は超高回転をつづけ、私たちだけがどん底に突き落とされていた。
不正に満ちた在日朝鮮人とカルト会員は加勢をつづけ、議定書ユダらの仕切るアメリカ政府が日本社会に埋め込んだ抹殺機は稼働をやめない。
民の解放の任務を受けている父を何の理由もなく刑務所に投獄し、肺炎で殺害する企てを実行したカルトの者ども。
しかし、ついに、刑務所の中で父を守られた御方が、復讐を開始された。
そして、人類に史上初の感染型肺炎をもたらされた。
そのコロナウィルスにより、多くが命を落とした。
そして、ようやく黙り、正気になりつつある社会に、世界的に多くの条件が揃い、新しい時代が到来した。
解放と復讐を最大の特徴とする黎明時代である。
千葉県富津市前久保287番地1の土地建物は今なお、父のものである。
2017年8月末に、
賃貸借契約の形で同地に住んでいた我々父子を追い出したことは違法であった。
そしてその後、(有)イシハナリアルエステートカンパニーが約束を破り、
物件が転がされ、昨年の夏に現在の名義人に渡ったことも不正である。
名義人は直接の対面を避け、「全てのやり取りをホームプラザアドヴァンスに任せてる」と主張する。
しかし、ホームプラザアドヴァンスの窓口に行くと、同組織は、
「うちは売買を担当しただけで、今後のことは名義人と直接やり取りしてほしい」と強調する。
実に、警視庁が不備の無い告訴状を違法に蹴ったことにより2021年11月24日に
生活保護受給世帯となった我々父子三人は、社会復帰できるよう、尽力しつづけた。
しかし、2014年1月の父に対する違憲投獄事件とそれによる「務所上がり」の汚名、
並びに、父の文書を翻訳したとの理由で私まで違法に前科者の汚名を受けたことにより、
今なお、アパートを借りることができない。
これまで保証会社に対し、違憲投獄を立証する公文書だけでなく、
同事件とそれによる長年の被害を活字で示してきたが、
この類の会社は真実に頭を下げようとせず、申請を不正に却下しつづけた。
誠に、迫害者らの軽蔑と罵(ののし)りの言葉は、帳簿に付けられた。
私たち父子三人から家を奪い続けたそれらから居所が奪われる。
我々は父の家に帰る。
そして、約束の地に子らが進むことを阻んだ者どもの家々に大量のカエルが侵入した災いの前例は、
出エジプトに際して、
すでにある。
2024年12月9日午後、私は父の家に上がった。
その際の証拠映像は次のとおり。
1. 復讐の時である。
2. 私の父の家を取り返す。
3. 私は、父の家に上がった。
2024年12月16日午後、私は父の家に持ち込まれた侵略者の看板を処分した。
そして、再び父の家に上がり、座敷と八畳間を一掃した。
証拠写真は添付のとおり。






